パティシエ見習い in ドイツ

ドイツのケーキ屋で見習いしてました。日々のつぶやきと製菓・カフェにまつわる情報の記録。

YOASOBI たぶん

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皆さん大変ご無沙汰しております。

突然私事の報告ですが、最近1年半ほど共にしていたパートナーとお別れしました。

お別れしたとはいえ、今でも大切な人として連絡を取り合い、会ってもいるので、関係を切ったわけではありません。

 

優しすぎる人でした。その優しさに申し訳なくなるくらい、そして時にはその優しさを利用してしまっているのかと迷うくらい、優しい人でした。

私を心から好きでいてくれたからこそ、無償の愛を注いでくれたのかもしれません。

でも、それに値する愛を私は注げていなかったように思います。

 

お別れの話が出てから、実際に区切りをつけるまでなかなか決断できず時間がかかったにも関わらず、お別れした後は不思議と悲しい気持ちがほとんどありませんでした。

 

私にとって彼が大切な人であることに変わりはありません。

ドイツに来てから大変な局面でたくさん助けてもらい、自分と違う視点や価値観を学ばせてもらい、私の痛みをあたかも自分の痛みのように、そして私の喜びをあたかも自分の喜びのように、一緒にとらえてくれる人でした。

彼のおかげで強くなれたことも沢山あります。

そして、彼とは色々なことを誠実に話し合え、色々なことを共有し合える関係でした。

 

だから、お別れをした時、その喪失感に苛まれなかった自分の感情が最初の頃はよくわからなかったし、今でもわからない部分はあります。

 

ただ、優しすぎる彼に甘えるように、現実逃避という形で彼の元に行っていた気がします。

本当はずっと自分の中にやりたい事があり、それに思うように取り掛かれていない葛藤のようなものには気づいてました。

だから、心のどこかで解放されたほっと感があるのかもしれません。

 

彼は私を思って別れるという選択を申し出ました。

彼の言葉は正しかったと思います。

私は今、自分のしたいことに打ち込もうと前を向いていますし、嫌なことがあっても、彼のもとへ逃げるのではなく自分で克服しようとしています。

 

私には、一生一人で生きる方が向いているのかもしれないと思うことがあります。

私の、好きという感情とまではいきませんが、意識が向いているのは、その時自分が取り組んでいることや先の目標で、それ以上の好きを相手に注ぎ続けることができるでしょうか。

 

好きってどういうことでしょう。

今まで好きになった人への、その感情の正体は何だったんでしょう。

そして、そういう感情を抱く人に、この世の中で生きていて出逢える確率も物凄くわずかなもので、でもお別れする時はお別れしてしまうんです。

 

そんなことを考えていた最近、YOASOBIの「たぶん」を聞いて、歌詞が心に響きました。以下、歌詞の一部を引用させていただきます。

 

”悪いのは誰だ

誰のせいでもない

たぶん

僕らは

何回だってきっと

そう何年だってきっと

さよならとともに終わるだけなんだ

仕方がないよきっと”

 

”悪いのは君だ

そうだっけ

悪いのは僕だ

たぶん”

 

”僕らは

何回だってきっと

そう何年だってきっと

さよならに続く道を歩くんだ

仕方がないよきっと”

 

”分かり合えないことなんてさ

いくらでもあるんだきっと

全てを許し合えるわけじゃないから

ただ優しさの日々を辛い日々と感じてしまったのなら

戻れないから”

 

”それでも

何回だってきっと

そう何年だってきっと

始まりに戻ることができたなら

なんて思ってしまうよ”

 

今、人生の転換期にいるような気がしています。

最近体調不良やモチベーションのあがらない状態、考え事の多い状況が続いていますが、次のステップに向けての兆候なのかなと感じています。

不調というのもそろそろ流されてないで、自分から好転させていかないと、とも思います!

写真は出勤中の綺麗な朝焼けです。